きまぐれ更新ブログ

1994年5月

調理師学校の同期の白岩忠志氏の紹介で、東京銀座の資生堂パーラー《ロオジエ》に入社することができました。
彼は現在神戸の「ラ・ピエール・ブランシュ」というショコラティエのオーナーで、
神戸では一目置かれる有名パティシエです。
 
その白岩氏が当時勤めていた資生堂パーラーを退職し、神戸に帰るということになったため
自分の代わりにということで、同社に便宜を図ってくれたのでした。
 
そして当時の製菓長で現在京都の「オー・グルニエ・ドール」のオーナー西原金蔵氏の下で勤務しました。
29歳にして下っ端でも定職で洋菓子が作れることに喜びを感じていたその半年後、
同社静岡店がオープンされることになったのですが、未婚であることが理由で転勤となり
いきなり新店舗のシェフ・パティシエに就任することになってしまいました。
 
しかし資生堂パーラー静岡店で提供していたケーキ・デザートが幸運にも社長をはじめ同社の間で評価され、
また静岡店の調理長であった今津光夫氏がパティシエとしての腕を認めてくださり、紹介等して頂いたことで、他支店の調理長さんからも信頼を頂きました。
 
当時は調理部門と製菓部門がバラバラで、デザートを理解してくださる料理人さんが少なかったのですが、
料理長さん達から理解を頂いたことでデザート部門が見直された事は本当に嬉しいことでした。
 
そしてその後も大型支店のシェフ・パティシエを務めさせてもらいましたが、それはデザートを理解して下さり、積極的に発信して下さった各支店の料理長さん達のお陰だと感謝しています。
 
またこの頃洋菓子コンクール参加を勧められることが多かったのですが、
どうしても煌びやかで、原材料費に糸目をつけず、プロ中のプロが審査するというコンクール菓子に興味がわかず、飽くまで一般のお客様に評価してもらう商品となる菓子作りを重視したかったので全て断っていました。
 
ケーキなどのデコレーションにおいては他の洋菓子店やパティシエからはほと
んど学ばず、主に和菓子(特に京菓子)が持つシンプル且つ繊細な日本の心から学んでいました。
 
「いかに飾らずして主張させるか」が、自分としての課題でした。
 
この考えやスタイルは、後の独立にそのまま受け継がれていくことになりました。
 
2000年6月、建設中であった同社本店ビルが完成間近となり、本店シェフ・パティシエの内示を受けました。
 
しかし同時期に家庭の事情があり、やっとの思いで掴んだ栄誉でしたが、
断腸の思いで内示を辞退させてもらうことになりました。
 
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